落合陽一氏とメダリストに振り回された日

今日はお休みだったので、落合陽一先生とQuizKnockの「デジタルネイチャー」についての話を動画で半分くらい見た後、メダリストを10話くらい見た。
これが非常に両極端で、疲れた。

どう極端かというと、落合陽一のデジタルネイチャーにおいては宇宙も自然も人も全部計算機で、人間にとって賢さはおまけにすぎないと。人は空(ヌル)から始まり、空(ヌル)に終わる。そんな中で「人間らしさとは何か?」を問うているのが、こないだの万博らしい。

私はこれを見て、「じゃあ人間は何のために生きるのか?」と思った。
ここからは私の勝手な妄想だが、ロボットはこれから全てにおいて人間を超越する。人間は不完全で稚拙な生き物に成り下がる。バカでかわいい、犬猫のような存在になる。それでもオリンピックはあるのだろうか?東大を出ることに意義はあるのだろうか?まあ犬猫にもコンテストはあるから、その種の中の優劣みたいなのはあるのかもしれないが、なんとなく馬鹿馬鹿しさを感じる。

からのメダリストである。小学生ながら、フィギュアスケートの隠れた才能を持つ女の子が新米コーチに見出されオリンピックでメダリストを目指す話だ。
小さな頃から、余暇も学校も犠牲にして練習に費やすスケートの世界。
同じくフィギュアをやっていた姉に憧れ、自分にはフィギュアしかないからと、同じく遅くにフィギュアを始めた新米コーチの心を打ち、共に親の反対を乗り越えてフィギュアスケーターへの道を駆け上がっていく。
小さいながらに苦悩し克己し奮闘する主人公と、似た境遇ながら「彼女に自分を重ねない、彼女自身に選択を委ねる」と決め、またコーチとしての自身の未熟さにも真摯に向き合う新米コーチの姿。どちらにも、幼い自分や今の自分を重ねて色んなことを考えさせられた。

純粋に物語を楽しみながらも落合陽一が頭をチラつく。デジタルネイチャーの考えでは、こうして小さい子が身を粉にしてスポーツに打ち込むことを何とするのだろう?

成長とはなんなのだろう。どこまでが「人間らしい」もので、どこらからが「ほんのおまけ」なんだろう。
そもそも赤ちゃんが生まれて自立するようになるまでに獲得されるものは、「人間らしい」成長だと思う。排泄し移動しコミュニケーションを取り、何かしらの形で食い扶持を得る。ここまでは生物として必要最低限だと思う。
あと群れる生き物である以上社会性の獲得も必須だろう。他人をむやみに殺さないみたいな。

その後だよな。賢さや身体能力の限界に挑戦するような行いは、落合陽一自身がやっているであろう、新しいものを作り出す創作活動とは違い、ただ限界を試すだけの、意味がない行為なんだろうか。

いや、落合先生自身はそんなこと言ってない。
ここで改めて時間が取れたので落合氏の動画の後半を見たのだが、ちゃんと全部見てからメダリスト見ればよかったと後悔した。
落合氏はちゃんと「賢さ」や「強さ」のような記号を捨てて、共生することだけを目指せばいいと言ってた。「あなたといると楽しい」「これおもしろい」だけで生きていていいのだと。
なるほどな〜。共生の枠内であれば、成長も競争も生きるうちにあって、輝くいのちなんだ。

なんか安心した!いっぱい勉強して疲れた。
落合先生の話、興味深い、こういうことを自分で考えられるようになりたいなあ。
今日はこのくらい。