今日も家族に怒っていたなあ。ぷちおこではあったけど。相変わらず月一のあれで不調で、朝から大量の糖分を取って、子供を怒って眠り、起きて延々とショート動画を見て夫に怒って眠り。不機嫌だけが残って、生産的なことは何もできない一日だった。
なので今日のジャーナルも怒ることについて考える。特に家族に対して怒ることについて。家族に苛立っている自分というのは、ほんとに虚しい。怒るというのは、「何かをしてほしくて」怒るんだと思う。でも家族は「何かをしてあげたい」相手でもある。ギブアンドテイクの関係性だ。この関係の中で怒ってばかりと言うことは、与えてばかりってことじゃないか?みたいに思って、虚しいのだ。
今日の私に限って言えば、他の家族みんな私に気遣った言動をしてくれていたので気のせいなんだけど。単に今日の私のキャパが激狭だっただけ。
まあそういうこともある。
家族に対する怒りで思い浮かぶ人が二人いる。一人は知り合いで、その人の父親にも何度も会ったことがあり、この父親がまあ各方面から怒られることしか言わない人で。確実に知り合い自身も父親を嫌っているはずなのだが、完全に縁を切るということをしないのだ。どころか、私はじめ友人たちに自分の家族として普通に紹介し、家族ぐるみで仲良くしたりする。色々と気になりすぎるので本当はどう思っているのか聞きたくて仕方ないのだが、そうしない理由の一つに、知り合い自身の人柄がある。あの父親の子供とは思えないほど、気遣いの達人なのだ。どのような話題であれ、中立の立場から発言し、際どい発言に対しては、フォローと気づかれないくらいさりげなく柔らかい言い換えをしたりする。父親がああだから反面教師でそうなったような気がしてならず、そのような熟達に至るまでに何度ちぎれそうな理性を繋ぎ止めるような修羅場があったのかと思うと、おいそれと踏み込めないでいるのだ。
もう一人は作家の三浦しをん氏。彼女のエッセイが大好きなのだが、ある本の中で自分の母親がしをん氏自身が何を着ても否定してきて、怒りで刃物を持つ手がぶるぶる震える経験をしたことがあると吐露している。そして彼女も、同じ本の中でその母親と温泉旅行に行っていて、知り合い同様家族として関係を維持しているのだ。私はそのエピソードを読むまで、彼女のエッセイはどれものほほんとした幸福感にあふれていて、彼女は結婚こそしていないが、家族に愛され、好きな仕事をし、ひとつの理想の人生を歩んでいるんだと思っていた。
色々あったにも関わらず尖ることなく、むしろ丸くなって、その丸みを自身の強みとしていった二人を見るに、私は修行が足りないなといつも思う。
今日はこれくらい。
三浦さんのエッセイは好きだが小説はなぜかいつも挫折してしまう。いつか代表作くらいは読了したい。


